私自身、埼玉県浦和に生まれ育ち、小学生から浪人時代まで塾にお世話になった。実際、塾では多くのことを学んだ。更に、大学院に進学してからは塾講師で糊口を凌ぎ、現在も時々塾からの仕事をこなすこともある。つまり、私自身、塾の恩恵を十分に受けている人間であることを最初に言っておく。
中学時代、先生方の中には正直学校に授業ではなく部活動をやりに来ている方も多数おられた。また、小学校の頃から塾通いをしていた私は、学校は色々な行事を楽しむところで、勉強は塾でやるものだ、と当たり前のように考えていた。浪人時代、予備校の先生方の授業に高校では得られなかった知的刺激を受けた。当時は予備校最盛期で、著名な先生方がハイレベルな授業を展開していた。このような環境の下、塾への信頼は揺らぐことはなかったし、自分が院生になるとそこで教鞭をとることに誇りさえ感じていた。
このような塾産業の発展は、不十分な公教育を補う役目があったことを指摘しておきたい。昨今話題になっている小中高のブラックな職場環境によってできた教育の隙間を埋めるという役割を塾は確実に果たしているのである。
しかし、冷静に考えれば、そもそも公教育がしっかりと機能していれば、塾は必要ないのではないだろうか?塾が当たり前になっているのが現状ではあるが、塾にお金を使うよりまず公教育に十分な資金を投入するべきではないのか?そもそも、なんで日本では塾がこんなに盛んなのだろうか?
実は、フランスにはほぼ塾が存在しない。もしかしてあるかもしれないが、ほぼ知られていない。広告も見たことがない。日本やアメリカと同じように、フランスでも貧富の差による教育格差が大きな社会問題になっているが、それはやはり世界の多くの国と同様に、学費を税金で賄う安い公立校に行くか、私費で高い学費を払わなければならない私立校に行くか、という選択であり、そこに塾のために決して安くないお金を準備するという選択肢はない。
改めて確認しておこう。塾は文部科学省の管轄外であり、営利団体である。つまり、教育内容に関して政府の指導は受けないし、儲けにならないことにエネルギーはかけられない。「政府の言うことに捕らわれずにオレたちは自由に教育を追求するんだ」と言えば、アウトローっぽくて一見カッコ良く見えるか知れないが、「営利」に縛られる以上、限界がある。例えば、広大なグラウンド、設備の整った音楽室や理科室などが、学校に当たり前のようにあるのは、やはり行政がバックについているからである。塾の理科の授業では、テキストを使って問題の解き方を教えることは出来ても、実験を行い様々な現象を実際に生徒に見せてやることは不可能だ。そして、このような設備を塾が備えるのは、費用の面から言ってまず現実的ではないだろう。
対して、公教育には行政によって既にインフラが用意されている。これらを十分活用せず、教育を塾に頼るのは非効率ではないだろうか?我が国では、営利企業は効率を求めるのに対して、公共事業は無駄が多い、と広く信じられている。しかし、こと教育に関しては、効率を求められない公教育を活用するのが一番効率的ではないだろうか?
もちろん、塾のないフランスの教育に問題がないわけはない。前述の公立と私立の教育格差に加えて、先生との相性などにより一回落ちこぼれてしまった生徒はリカバリーが難しいという問題があるのだ。親や親戚が勉強をみてあげられる家庭は長いヴァカンスの間に復習が出来る。親の友人のコネをつたって家庭教師だって見つけられる。でも、塾も家庭教師センターもほぼないフランスでは、貧困層の子供たちは一回学校の授業で落ちこぼれてしまえば、もう誰もそこから救ってくれるものはいない。そこで人生を詰んでしまうのである。
そういった意味で、日本の塾が我が国の教育制度の欠陥を補ってきたことに疑いはない。親の社会階層に関わらず、お金さえ出せば塾に通えたり、家庭教師を簡単に雇うことが出来るからだ。そうしてこの国は歩んできたのである。
そして、そのような営利団体としての塾が知らず知らずのうちに我が国の教育を蝕んできたのではないのだろうか? まず第一に、塾は儲からない過疎地には進出しないので、教育の地域格差を加速させてしまった。そして何より、教育にはお金を払うのが当たり前だ、という考えを日本人に叩き込んでしまったのである。
四六答申以降の学費の高騰は、世界的に見れば、異常事態である。まず、その異常さを認識することから始めなければならないのではないだろうか?
奨学金問題対策全国会議 代表幹事
フランス文学博士(フランス国立ル・マン大学) 黒木朋興
フランス文学博士(フランス国立ル・マン大学) 黒木朋興